大木信景

HEW主筆。主筆って言いたいだけ。

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アンガー・マネジメントができないご意見番たち

 怒りってもっとパーソナルなもののはずだったと思う。ところが最近は、自分とは直接利害関係のないことに対する、想像力豊かな怒りがものすごく増えてきた。不倫に対するバッシングがその最たる例だろう。時に当事者のことは置いておくほどの勢いで、皆一様に口角泡を飛ばす。言ってる事自体は間違ってはいない。正論にも聞こえる。その、間違ってないということに陶酔したかのように、「議論」ではない「怒りの表明、主張」は終わることを知らない。 怒りがどんどんパーソナルなものから離れた、単なる「構造」に対するものになっている。登場人物が入れ替わったとしても、怒りの度合いは変わらないのだろう。そのうち、冗談抜きで「小説の中での話」などに本気で怒る人が出てくるのではないか。(事実、CMなりドラマなりの「虚構の中でのモラル」がやり玉に上がることがある。清水富美加は「人肉を食わざるをえない状況に陥る」役を演じることが、「信仰・信条に反する」とのたまった。そんなら殺人犯の役、強盗犯の役、遊び人の役、ダメ人間の役を演じてきた人の立場はどうなるんだろう) 個別の事情、それに至った経緯などのディテールはどんどん軽視され、構造に対して盲目的になされる怒りの主張。その怒りは、本当に必要な怒りなのか。あなたが怒らなきゃいけない場面なのだろうか。最近アンガー・マネジメントという言葉が聞かれるようになったが、アンガー・マネジメントができない人間が多くなりすぎてはいないか。「怒り」を「てなずける」とは、自らが許容できる境界線を意識することである。意見を言うことと怒りの感情をむき出しにすることを区別できない人間は多い。そして、自らが許容すべき範囲について考えたこともない人間も多い。 小金井ストーカー事件の被告に、懲役14年6月の判決が言い渡された。連日マスコミは、いや、テレビタレントたちが「短すぎる」の大合唱。客観的に見れば、殺人未遂で14年6月はむしろ長い方といえるにもかかわらず、だ。求刑17年に対し14年6月となったことについて「減刑された」などという無知にもほどがある戯言を恥ずかしげもなく口にする奴もいる。そんなのは論外としても、「『被害者女性の恐怖は想像するに余りある』から、刑が軽すぎる」という意見が大勢を占めているといっていいだろう。 確かに、犯行時の行動や裁判での態度など、被告の言動はとうてい理解できるものではなく、あまりに酷い。音楽活動をしていた女子大生にはなんの落ち度もない。彼女が、今の時点で、「14年では短い」と考えるのは無理からぬことかもしれない。ただ、その被害者感情に乗っかって無関係の善良なる想像力豊かなオーディエンスたちが「殺せ」「殺せ」の祭りに次々に参加していく様は、異常としか言えない。厳罰化の議論自体はあってもいい。ただしそれは、高度な客観性をもってされるべきだ。「被害者の恐怖心」を、厳罰の根拠にしていい論理ってなんなんだろうか。被害者の恐怖を取り除くためというのは、何をやってもいい免罪符なのか。反省の色が見えないから? 反省していれば「赦す」のか。被告を「赦せる」立場って一体なんなのだろう。リンチに見られるように、頭に血が上り怒りの感情を抑えられなくなった人間は暴徒化する。だから司法が存在する。したり顔で「司法が現代に追いついてない」と何が根拠なのかわからないことを言う人もいるが、怒りに身を任せた厳罰化の方向が、理想的な未来なのだろうか。 テレビでご意見番タレントが「『34回刺した』は『34人殺したと同じ』」といかにもネットニュースになりそうなことをいう。レトリックとしては非常におもしろく、うまいこと言ってるように見えるが、中身は薄い。しかし彼らは、本気で怒っているのだ。だからこそたちが悪く、救いがない。

ジョビジョバと東京オレンジの2ショットを大河で見ることになるなんて

 こんなにも笑って泣ける大河は初めてだ。三谷脚本にアレルギーがある人は「大河をコメディにした」などと見当違いの揶揄をするが、「おもしろうてやがて哀しき」が喜劇の本質。根底にあるのはあくまで人間の生き様で、それを際立たせる手段として、あるいはキャッチーにする味付けとして、笑いの要素があるに過ぎない。そして三谷作品の凄いところは、その笑いの要素が、単なるハプニングや言葉遊びではなく、役そのものから滲み出ていること。それらはしばしば役者の魅力と捉えられ、今作で言えば草刈正雄や大泉洋など評価を(もともと高いが)さらに急上昇させたりする。 三谷脚本の特徴は役者の魅力を最大限に引き出す当て書きにある。当然、それを可能にするのは役者の力量だ。三谷幸喜の役者に対する眼差しと、それに応える役者たちの演技が最上級のハーモニーを奏でたとき、作品は忘れ得ぬものになる。真田丸はまさにそういった幸福な作品だろう。三谷作品は、役者の顔ぶれを見るだけでわくわくさせてくれる。小日向文世、内野聖陽、遠藤憲一など実力派が快演を見せるなんてわかりきっていた。わかりきっていたはずなのに、想像を遥かに超えるキャラクターを作り出す。今回の真田丸が当たり役、代表作になるであろう役者のなんと多いことか。 それにしても、と思う。NHKの大河で、それも歴史に残る作品で、堺雅人と長谷川朝晴が二人で語らうシーンが見られるとは。感慨深いどころの話じゃない。彼らと同世代(ちょい下)で演劇をやっていた自分のような人間にとっては、どちらもヒーロー。特に同じ大学で身近に見ていた分、堺雅人はスーパースターだった。当時は長髪で池田貴族みたいな見た目だったけど、舞台に立ったときの存在感は圧倒的だった。役者の力というのは空気を支配する力なのだということを目の当たりにした。東京オレンジから大きな舞台、テレビドラマへと活躍の場を移しながら着実にキャリアを積んでいく姿は、まったく関わりはないのに誇らしかった。短い髪は最初は違和感あったのだけど。 そこに加えてハセだ。駅前劇場やスズナリが主戦場だったジョビジョバが東京芸術劇場に進出したときは鳥肌が立ったし、冠番組を持ったときは自分のことのように興奮した。今をときめくクドカンだって、あの頃は友達のよしみでジョビジョバの番組でたまに脚本を書かせてもらう立場だったな。赤坂を走る明水を見た時はどこに向かっているんだジョビジョバと心配したものだけど。その後、ハセは正直そこまで目覚ましい活躍をしてきたわけではない。ただ、ナイロンなど舞台でいい芝居をしているのを見ると嬉しかったし、テレビで目にする機会も多かった。発信力があり多才な感じで活躍しているマギーはどこかクドカン寄りで、いま各方面で活躍している大人計画周りの人たちと同じ匂いがするが、ハセのあくまで地道な感じが、この感慨に繋がっている気がする。とにかく、堺雅人と長谷川朝晴のシーンを見て「ああ俺の青春がこんな大きな舞台で語り合ってる」と思ったのだ。 年を取れば、昔から知ってる顔が大きな仕事をしたり、無名の頃を知っている人間が全国区になっていくのを見る機会もそりゃ増えるだろう。そんな中でも、今回の2ショットは、20年前の感覚が一瞬で蘇ったという意味で特別だった。それぞれをバラバラに見たってこんな感覚は生まれなかったはずだ。自分は早々に演劇はやる側ではなく観る側と決め、今は演劇とは全然違う仕事をしているが、あの頃抱いていた「おもしろいものを作りたい」「おもしろい物語を提供したい」という思いは全く変わっていない。なんか、それが間違っていないという気にさせられた。 ジョビジョバは2年前、12年振りに1回限りの復活を果たしたが、やっぱり馬鹿馬鹿しく、やっぱりおもしろかった。そして心底、また観たいと思った。東京オレンジも、堺雅人主演でもっかいやってくんないかな。

4257という数字自体に意味は無い

 どんな現場でもそうだが、話題になってニワカが騒ぎ出したり、ひとこと言いたい人が出てくると、現場の温度感とはズレた論争が独り歩きしてしまう。連日、イチローの4257本を「記録として認めるべきか否か」みたいな論争があるように報じられているが、実際はちょっと違うんじゃないか。そこにフォーカスすることでイチローの実績、偉業にケチがつくことを、イチロー自身やバリー・ボンズだけでなく、アレックス・ロドリゲスやピート・ローズでさえ危惧しているように思う。 まず勘違いしてはいけないのは、みんなイチローの偉大さを精一杯表現するために「メジャーで一番ヒットを打ったピート・ローズよりもヒットを打った」って言ってるだけで、4257本がメジャー記録だなんて一言も言ってないということ。誰に聞いたってメジャー記録は4256本に決まってる。日米通算とメジャー記録の比較ができないこともみんなわかってる。“日米通算”にみんな違和感持ってるし、意味があるのかないのか迷いながら言ってる。日米通算って言いたいんじゃなくて、日米通算としか言えないから言ってるだけだ。 その上で、数字の価値は各々が決めればいいこと。打率よりも重要なのは出塁率だ、いやOPSだっていうのと基本的には変わらない。「2大リーグで打ったヒットの数」では、イチローがピート・ローズを上回りました。そこは動かしようがない。その上で、NPBでの数なんて入れるなという人がいてもいいし、同様に内野安打はセコいから数に入れるなって人がいてもいいし、逆に走力がある証左だという人がいてもいい。NPBのほうが試合数が全然少ないからより価値があるという意見だってある。これらはもう、アベレージヒッターよりホームランバッターのほうが好きとか、ホームラン王よりトリプル3のほうが好きとかと同様、趣味の問題だ。そんな好き嫌いと同列の話でしかない。 ただ、日本とアメリカの選手の違いをことさら重視して、「日米を通算してヒット数を数える」こと自体ならんというなら、違う時代の選手を通算成績で比べること自体に意味がなくなる。だって対戦する選手だって環境だってなにもかもが違うんだから。だからピート・ローズの4256本をメジャーの歴史の中で見ることも意味がない。また、時代が同じでも、所属するチームが違えば対戦相手も変わってくる。好投手を擁するチームに所属することがどれだけバッターの成績に有利に働くことか。あ、それを言ったら年間成績からして比較できなくなるな。そもそも、球場の大きさもバラバラ、使用球も球場によってバラバラ、しかも年によって試合数もボールのレギュレーションもバットのレギュレーションも違うなかでの数字だ。所詮野球の記録なんてそんなふわっとした土台の上のものなんだから、ある1点にのみ厳密な話をされても、困ってしまう。結局は、そんなゆるさをどこまで容認するかというつまらない話にしかならない。だから「記録として認めるべきかどうか」という議論はちょっとズレていると思うのだ。 メジャー記録ではない。でも世界一ヒットを打った。選手や関係者はそれを前提に話をしている。彼らには、イチローに対するリスペクトが根底にある。彼らが反発しているのは、イチローが世界最高の選手の一人と称されることではなく、4257が独り歩きすることだ。この議論に悪者を作る必要はまったくない。 なんにせよ、ここ数年は寂しい成績に低迷していたイチローに、全盛期のようなスポットが当たるのは嬉しい限り。イチローが本当に50歳までプレーして、メジャーだけで4257本でも達成しようものなら、今度はまた「長くやってりゃそれだけ本数積み重ねられるんだから、大変なことだけどバッターとして凄いわけではない」とかいう意見も出るんだろうな…とは思うけど、それはもう危惧なんかではなく恐ろしく喜ばしい事態ですよね。 

「素人だけどみんなで一生懸命考えたから私達にとっては正解です」が気持ちわるい

 今市事件の裁判員裁判で、被告人が自白したとされる取り調べの録画映像が決め手となり有罪判決が下された。正直、「検察もうまくやったな」という感想を持たざるを得ない。 取り調べの可視化に一貫して反対の立場をとり続ける警察・検察。しぶしぶ録画及びその公開には応じるようにはなったが、それで捜査の正当性・公平性が担保されたわけでは決してない。そんなもん、どんな馬鹿が考えても恣意的な公開に終始すると思うだろう。今回も、何百時間にも及ぶ長い取り調べの、ほんの7時間が公開されたに過ぎない。しかも検察の編集によるものだ。どれだけ検察がこの7時間を選ぶのに慎重を期したか、想像に難くない。本当に透明性を謳うなら、“全取り調べの録画と公開あるいは閲覧箇所の自由指定”を可能にするしかないが、それが実現する気配は全くない。 正直本件は本当に真実は何なのかわからない。この被告人がやったのか、それとも冤罪なのか。ただ、物証がなにもない事件を、自白だけで有罪確定まで持って行き解決したとするのは日本の司法の最大の欠点ではなかったか。今回の裁判で、裁判員たちは口を揃えて「映像を見て有罪だと思った」「映像がなかったら有罪判決までは導けなかった」と語っている。つまり、全員が、“印象で決めました”と言っているのだ。物的証拠がとぼしく、取り調べでの自白の信用性が最大の争点となった裁判で、素人である裁判員の印象で有罪無罪が決まる。殺人事件であり、極刑が予想されるのにである。 検察は被告人が殺したと言い、被告人はやってないと言う。双方が正しいことは絶対にあり得ず、必ず、どちらかが、間違っている。でも決定的な証拠はない。それを素人による印象で決めさせる乱暴さ。こういうときのために“疑わしきは罰せず”の精神があるのだが、いまの司直には理解できていないようだ。 今は、誰もが声を上げやすくなり、気に食わないことにみんなでNOを言うのが当たり前の時代だ。不倫しただけで1年半も謹慎したタレントを、そろそろいいだろうと起用したCMが、ボコボコに叩かれて速攻お蔵入りになる時代。ならお前らで決めりゃいいじゃんと国民に判断させるケースが本当に多くなった。五輪のエンブレムなんて、誰も選びたくない。というかどうでもいい。ただ不正が嫌だと言っただけなのに、じゃあ国民の意見も聞くという。裁判だって、難しい試験受けて偉そうに有資格者顔してる専門家がいるんじゃないのか。司直の日常感覚の欠如が問題だったとしても、その解決法は「素人裁判員を入れる」じゃなくて「専門家が日常感覚も身につける」じゃないのか。 衆愚政治という言葉があるが、大多数の国民なんて自分の事以外には責任は負っていないし、間違っていることも多い。それをわかっていながら、判断の是非は二の次に、批判を避けるためだけに大衆の声を採用する。そういえば、いつのまにかテレビの情報番組のコメンテーター席に有識者ではなくタレントが座るのが当たり前になってしまった。それも“おバカ”と呼ばれているタレントだったりお笑い芸人だったりする始末。専門家の見解を尊重するのではなく、等身大のありふれた意見、つまり自分が思ってることを代弁してくれる声に安心するだけの世の中が、成熟する方向に向かうとはとても思えない。“素人だけどみんなで考えたことだから正しい”というのは、民主主義なんかではなく単なる思考停止だということにいい加減気づいた方がいいのではないか。