ゆるめるモ!のライブで『アマデウス』を思い出した話
※すべては女オタの妄想。
悲劇の始まりは、もねちゃんが「ゆるめるモ!」のコンセプトとは真逆と言っていいほどの、プロ意識の持ち主だったことから始まるのかもしれない。“脱力支援アイドル”をうたうモ!のオリジナルメンバーであるもねちゃんは、メンバーであると同時に振付師でもあり、正統派とはいえないグループのなかで、ひたすらに“お姫様”を目指し続けた。あまりに悲しすぎる事実だけど、きっとそんな始まりの始まりの部分からズレは生じていた.
一方、あのちゃんはモ!を体現するような存在だった。生きづらさを抱えた少女はアイドルを目指していたわけではなく、異世界にふらっと迷い込むようにモ!に加入した。AKB48を始めとして多くのアイドルグループは体育会系の空気をまとっている。そこでは多かれ少なかれ根性が評価されて、流した汗の量が美談になる。そんなアイドル界のなか、いくらモ!が知名度を上げていっても、あのちゃんはマイペースを貫いている。休みたいときは休む。ノリたいときはノる。それでも(実際は“それだからこそ”なのだろうけど)あのちゃんは、モ!でずば抜けた人気を誇っている。あのちゃんは、何かを目標にするのではなく、ありのままの姿で、本人の意図しない何かのメッセージを発信し、それはときに宗教的に支持されてきた。
あのちゃんは、正統派なグループでは通用しないアイドルだった。でもモ!というグループでは、これ以上ないほど正しい存在だった。むしろモ!という異質なグループにおいては、極端な話、もねちゃんのほうが浮いた存在だったのかもしれない。ふたりは対になるような存在だった。
中学生のとき、音楽の時間に『アマデウス』を見た。今となってはぼんやりとした記憶しか残っていないけれど、中学生の私はこの映画で一番悲しい部分は、サリエリがけっして凡才ではなく、むしろ才能に恵まれた人物だったことにあるように感じた。輝かしい才能も、神に祝福されたというしかない圧倒的なものを前にすれば、簡単にねじふせられてしまう。
もねちゃんは歌も上手い、ダンスも上手い、華奢でかわいい。でも、あのちゃんには圧倒的な何かがあった。そして、その“圧倒的な何か”はモ!というグループに奇跡のようにハマッた。
誰も悪くない結果なのだろうと思う。運営がもねちゃんのフォローをもっとできたのではないかというやり切れなさがまったくないといえば嘘になるけれど、誰にもどうにもできないすれ違いというものはある。
自分はモ!に関しては基本的に在宅で、ライブやリリイベに何回か足を運んだ程度でしかない。でも一推しのもねちゃんが7月10日にちーぼうと共にグループを卒業することが決定して、6月12日の「女めるモ!」で1年ぶりにライブに行った。もねちゃんはかわいかった。誰も文句がつけられない、最強のプリンセスだった。なんで今までちゃんと推していなかったんだろう?
終演後、もねちゃんと初めてチェキを撮った。「今年の夏はどうするの?」と聞いたら、もねちゃんは「今それを迷ってるの」と答えて、「歌舞伎町で弾き語りとかしてるかも」といたずらっぽく笑った。
いろんなことが変わっていく。もねちゃんは日常に帰り、いつかもらったサインやチェキだけが残る。それらは見返すたびに「これを書いた女の子は、今では普通の女の子なんだ」という感傷で小さく胸を刺してくるのだろう。バレエの要素を取り入れた、ふわふわとしたモ!の振り付けも大好きだったのだけれど、今後はどうなるのかわからない。もねちゃんが「アントニオ」の振りを最後に残してくれたのは、とてもいいことだと思う。
ライブでは、もねちゃんとあのちゃんが並ぶたびに、胸に迫るものがあった。この正反対なふたりが肩を並べれば、なんでも出来たんじゃないか。
でも、そんな未来はない。もねちゃんはサリエリほど卑劣ではなかった。だからモーツァルトは、まばゆいばかりの才能をこれからも気ままに発揮していく。もねちゃんは、ある意味あのちゃんよりも遥かに不器用な人間だった。だからこの『アマデウス』の話はここで終わる。願わくば、もねちゃんのこれからが、明るく楽しいものでありますように。
0コメント